主催者のツアーへの想い
今年もカンボジアの天使達がやってくるってか? 今、映画のパート2を撮影してるんやけど、 僕はほんまにこの二人を尊敬している。 だってね、子供が出来ない、この夫婦が孤児院をやるって決めてくれたおかげで、 そんな絶望の中、光をあてたのは、ネスとタビーやねん。 「私達ね、孤児院をすることに決めたの、一緒に住まない?」 二人が孤児院をやるって決めてくれたおかげで、 映画の中で伝えたいのは、一人が今日、なにを選択するかによって、 もしも、一人で選択する勇気がなければ、二人で選択すればいい。 勇気の選択は必ず、この世に希望を増やす。 そんなことを、ネスやタビー、そして天使達。 今回のジャパンツアーの担当リーダーは、恵理子というこれまた、 今回、僕は出来るだけ、このプロジェクトを後ろで、見守っていこうと思っている。 今でも記憶に残っているシーンがある。 血は繋がってないけど、もっともっと深い、心がつながっているネスとタビーの愛は、
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NGO 「MAKE THE HEAVEN」代表 てんつくマン
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今年でジャパンツアーは3回目を迎えます。いつも本当にありがとうございます。 天使・・・ いるんですね、天使って。 私カンボジアで出逢ったんです。天使たちに。 カンボジアの子どもたちは、力を持っています。生命力という強く生きる力です。日本の子どもたちや大人たちが今学ぶべき力、それをこの子たちの笑顔で元気に踊る姿が、教えてくれるのです。カンボジアに来れない方たちに、今年も沢山の人たちにこの天使たちに逢ってほしい。だから、今年もこの子たちに来てもらうことにしました。 昨年のジャパンツアーを終えて、子供たちが自分たちの踊りで得たおひねりを含め、123万円の直接支援金が出来ました。みなさんのおかげで沢山の支援をすることが出来ました。その支援先を決める時、孤児院のオーナーのネスさん・タヴィさん夫妻はこう私に話してくれました。 「この支援先はすべて、MAKE THE HEAVENが決めて下さい。 私は心の中で、この夫妻ならカンボジアの未来を変えられる、そう思いました。 今年もNCCLA孤児院の子供たちが、カンボジアの他の子供たちの為にも、踊ります。 そして、 一緒に、笑ってみませんか? 一緒に沢山の夢を見てみませんか? どうか沢山の日本人のみなさんが、天使たちに出逢えますように。
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プノンペン事務所 駐在員 市川 絵美子
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1970年プノンペン市に生まれる。 父親は医者で、祖父母、両親、弟・妹が4人の計9人で暮らしていた。 医者をしていたNETHさんの父親も例外ではなくポルポト政権により殺されてしまう。 1979年になるとベトナム軍が侵攻してきて、ポルポト政権による支配が終わり、NETHさん一家はプノンペン郊外に移り住む。このときまで学校に行ったことのなかったNETHさんは、初めて小学校に通い始める。9歳になっていたけれど、1年生だった。片道10km近い道のりを毎日歩いて通い続けた。 一番の働き手である父親のいない一家の暮らしは大変なものだった。もともと体の弱かった母親はベッドで横になっていることが多く、とても働きに行ける状態ではなかった。 勉強は一生懸命取り組んでいたので、無事小学校の卒業試験もパスすることができた。 高校への入学も決まり、入学前の長い休みの期間を利用して入学祝に買ってもらった自転車で自転車タクシーをしてお金を稼いでいた。 バッタンバンでの戦闘は激しく、同僚が次々と死んでいく中、NETHさんはなんとか生き残っていた。戦闘に参加して4ヶ月目、隣にいた友人の手榴弾が暴発し、その友人は死に、NETHさんも大怪我をして、軍の病院へ入院してしまう。 入学式から半年ほど過ぎていたけれど、事情が事情なだけに高校へ入学することができた。高校在学中も自転車タクシー、パンやお菓子売りをして生活費や学費を稼ぎ、長い休みには出稼ぎなどをしていた。 いろんな苦労を乗り越え、無事に高校も卒業できた。成績が優秀だったNETHさんは進学を選択することもできたが、学費や生活状況を考えて進学することを断念する。 それからは高校のときから続けていたシクロのタクシーとふとん工場での仕事で家族の生活を支えていた。 1990年、内戦の続いていたカンボジアを国連の機関UNTACが統治することになる。 その後新しい政府の議員を選ぶための選挙が無事行われ、国連はカンボジアから引き上げていった。NETHさんの仕事も終わり、高校での英語の先生、英語の家庭教師、ピザレストランでのホール係を掛け持ちして働いていた。 そんなある日、お金持ちの友人がピザレストランを開くことになり、NETHさんはそこのマネージャーとして働くことになった。レストランはNETHさんの頑張りもあり大繁盛だった。しかし、オーナーである友人がもっと儲けようとして、他のスタッフより給料の高いNETHさんの給料を安くして辞めさせようと嫌がらせをしてきた。しばらくは我慢をしていたNETHさんだが、その店によく来ていた友人たちに相談して、そのうちの3人と新しくピザレストランを開くことにする。その店も大繁盛で経営は順調だった。 しかし、レストランオープンからしばらくしてまたもやカンボジアで内戦が起こり、カンボジアから外国人がいなくなりレストランの経営も悪化してしまう。 2ヶ月で内戦は終わったが、NETHさんと友人のピザレストランは閉店することになる。 そこでの給料をコツコツと貯め、98年に現在のベイヨー・トンレ レストランをオープンする。しかし、そのころのカンボジアは政府が未熟であったため、爆弾テロなどがあったりするなど情勢が不安定で、外国からこの国を訪れる人は少なく経営は苦しかった。 2000年になると国の情勢も落ち着いてきて、レストランにもお客が入るようになり経営も安定してきた。しかし、利益が上がるようになったからといって贅沢することはなく、その売り上げは少しずつではあったが、貯金していた。 2002年にTAVYさんと結婚。 レストランの経営は順調でこのときまでに貯金は随分と蓄えられていた。結婚してからはそのお金の使い途について毎日のように夫婦で相談していた。当時のカンボジアは長く続いた内戦のため、孤児が多かった。子供のころ苦労をしたNETHさんは一人でもそんな子供減らしたいという思いで、孤児院を作ることを考えるようになった。 そして、2004年11月11日NCCLA孤児院を設立。 初めは7人の子供でのスタートだった。 子供たちはNETHさんの方針で学校に通う傍ら、英語や日本語、パソコンの勉強、そしてカンボジアの伝統舞踊であるアプサラダンスも練習している。週に2回月曜と土曜の夜にNETHさんの経営するレストランで踊りを披露し、寄付を募るなどの活動もしている。 またNETHさんは、今でもレストランの売り上げが多いときにはその売り上げを貯金し、そのお金で貧しい田舎の地域の子供たちに文房具などを届ける活動をしている。
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NCCLA孤児院オーナー LAY NETH
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