AY NETH 物語
1970年プノンペン市に生まれる。
父親は医者で、祖父母、両親、弟・妹が4人の計9人で暮らしていた。
平和で豊かな生活も1975年のポルポト政権の始まりとともに終わりを告げてしまう。
ポルポト政権は知識人(先生や弁護士、医者など)を将来抵抗勢力になる恐れがあるからと捕まえ処刑し、プノンペンに住む人々も市内から追い出してしまう。
有名なトゥールスレーン収容所やキリングフィールドはこのころ出来たものである。
医者をしていたNETHさんの父親も例外ではなくポルポト政権により殺されてしまう。
NETHさん一家はプノンペンの南西にあるタケオ州に逃げるように移り住んだ。というのもポルポト政権は知識人の家族も捕まえ処刑していたからである。
なんとかタケオ州に移り住んだNETHさん一家だったが、祖父もポルポト政権に捕まり殺され、まだ幼かった弟や妹たちは次々と栄養失調などで死んでしまう。
残ったのは祖母、母、NETHさんの3人だけだった。
当時ポルポト政権は子供にも過酷な労働を課していて、NETHさんも大人と同じような仕事をさせられ毎日を過ごしていた。
1979年になるとベトナム軍が侵攻してきて、ポルポト政権による支配が終わり、NETHさん一家はプノンペン郊外に移り住む。このときまで学校に行ったことのなかったNETHさんは、初めて小学校に通い始める。9歳になっていたけれど、1年生だった。片道10km近い道のりを毎日歩いて通い続けた。
一番の働き手である父親のいない一家の暮らしは大変なものだった。もともと体の弱かった母親はベッドで横になっていることが多く、とても働きに行ける状態ではなかった。
わずかではあったけれど、祖父の残してくれた金(ゴールド)の薄い板があり、それを少しずつ切っては換金して、生活費や学費に充てていた。その金の板もやがて少なくなり祖母とNETHさんとでジャガイモやとうもろこしなどの農産物を農家から仕入れ、売り歩いていた。
それでも生活は苦しく、NETHさんは家から5kmのところにあったガラス工場のゴミ捨て場に行き、ガラスの破片を拾ってリサイクル業者に売ってお金を稼いでいた。学校が終わってから拾いに行くので時間もあまりなく、1日2〜3時間拾って400リエル(20円)程度だった。
勉強は一生懸命取り組んでいたので、無事小学校の卒業試験もパスすることができた。
小学校の卒業を機に、中学校や市場が近くにあることから、プノンペン市内の中心部に移り住むこととなる。オリンピックスタジアムの近くだった。
祖母とNETHさんはこのころお菓子や仏像、パンなどを仕入れて売りに行っていた。それだけでは相変わらず生活に十分ではなかったため、空いた時間にNETHさんは近くのゴミ捨て場でごみ拾いをしてお金を稼いでいた。
このころになるとNETHさんも思春期を迎え、自分の生活状態に恥ずかしさを覚えるようになり、ごみ拾いや物売りをすることにだんだんと抵抗を感じるようになっていた。
高校への入学も決まり、入学前の長い休みの期間を利用して入学祝に買ってもらった自転車で自転車タクシーをしてお金を稼いでいた。
そんなある日、自転車に乗りタクシーのお客を探しているときだった。突然軍隊の人に捕まり、そのまま軍の施設へと連れていかれてしまう。当時はまだポルポト政権の残党と新しい政府との間で戦闘が行われており、高校へ入学できない青年は軍隊に入らなければならなかった。NETHさんは軍隊の人の勘違いで軍隊に入れられてしまった。
まだ若かったNETHさんの言い分は軍隊の人に聞き入れてもらえなかった。そして、たいした訓練も行われることなくすぐに戦地であるバッタンバン州へと配置され、戦闘に加わることになった。
そのころ祖母は突然いなくなったNETHさんの行方を捜し、軍隊に入っていることを知る。それから祖母は、高校への入学が許可されていることの証明書類を作るために奔走することになる。
バッタンバンでの戦闘は激しく、同僚が次々と死んでいく中、NETHさんはなんとか生き残っていた。戦闘に参加して4ヶ月目、隣にいた友人の手榴弾が暴発し、その友人は死に、NETHさんも大怪我をして、軍の病院へ入院してしまう。
その病院へ祖母からの書類が届き、ようやく軍の任務から解放されることに。しかし、怪我がひどく治療のためにしばらくは入院し、回復後プノンペンに戻ることになった。
入学式から半年ほど過ぎていたけれど、事情が事情なだけに高校へ入学することができた。高校在学中も自転車タクシー、パンやお菓子売りをして生活費や学費を稼ぎ、長い休みには出稼ぎなどをしていた。
また、仕事や高校の勉強の合間を縫って、独学で英語の勉強もしていた。
高校2年のころにはシクロ(三輪の自転車にお客が乗る椅子が付いている乗り物)を借りて、本格的にタクシー業をしていた。
いろんな苦労を乗り越え、無事に高校も卒業できた。成績が優秀だったNETHさんは進学を選択することもできたが、学費や生活状況を考えて進学することを断念する。
それからは高校のときから続けていたシクロのタクシーとふとん工場での仕事で家族の生活を支えていた。
しかし、給料は安く苦しい生活が続いていた。2年ほどシクロのタクシーとふとん工場の掛け持ちをしていたが、カンボジアーナホテルの警備員へと転職することになる。月給は21ドルだった。
大変な暮らしの中でも少ないお金をやりくりし、英語の勉強は続けていた。
その努力が実り、カンボジアーナホテルのレストランマネージャーが英語の上手なNETHさんをレストランのホール係として引き抜いた。月給は35ドルに上がった。
1990年、内戦の続いていたカンボジアを国連の機関UNTACが統治することになる。
そして新しい政府を作るために国連の職員がたくさん入ってきて英語のできるカンボジア人が必要となり、NETHさんは通訳として働くことになる。月給は300ドルだった。
その後新しい政府の議員を選ぶための選挙が無事行われ、国連はカンボジアから引き上げていった。NETHさんの仕事も終わり、高校での英語の先生、英語の家庭教師、ピザレストランでのホール係を掛け持ちして働いていた。
そんなある日、お金持ちの友人がピザレストランを開くことになり、NETHさんはそこのマネージャーとして働くことになった。レストランはNETHさんの頑張りもあり大繁盛だった。しかし、オーナーである友人がもっと儲けようとして、他のスタッフより給料の高いNETHさんの給料を安くして辞めさせようと嫌がらせをしてきた。しばらくは我慢をしていたNETHさんだが、その店によく来ていた友人たちに相談して、そのうちの3人と新しくピザレストランを開くことにする。その店も大繁盛で経営は順調だった。
しかし、レストランオープンからしばらくしてまたもやカンボジアで内戦が起こり、カンボジアから外国人がいなくなりレストランの経営も悪化してしまう。
プノンペン市内での戦闘が激しくなりシェムリアップでレストランをやることにする。このときに友人3人のうちの2人は経営から手を引いてしまう。
シェムリアップでも状況は変わらず、経営は苦しいままだった。
2ヶ月で内戦は終わったが、NETHさんと友人のピザレストランは閉店することになる。
内戦が終わりプノンペン市内に戻ったNETHさんは、NYタイムズで働く友人を訪ねそこで働くことになる。
そこでの給料をコツコツと貯め、98年に現在のベイヨー・トンレ レストランをオープンする。しかし、そのころのカンボジアは政府が未熟であったため、爆弾テロなどがあったりするなど情勢が不安定で、外国からこの国を訪れる人は少なく経営は苦しかった。
NETHさんはレストランの経営を親戚に任せ、英語の先生などをしながら家族の生活やレストランで働くスタッフの給料を賄っていた。
2000年になると国の情勢も落ち着いてきて、レストランにもお客が入るようになり経営も安定してきた。しかし、利益が上がるようになったからといって贅沢することはなく、その売り上げは少しずつではあったが、貯金していた。
2002年にTAVYさんと結婚。
レストランの経営は順調でこのときまでに貯金は随分と蓄えられていた。結婚してからはそのお金の使い途について毎日のように夫婦で相談していた。当時のカンボジアは長く続いた内戦のため、孤児が多かった。子供のころ苦労をしたNETHさんは一人でもそんな子供減らしたいという思いで、孤児院を作ることを考えるようになった。
そして、2004年11月11日NCCLA孤児院を設立。
初めは7人の子供でのスタートだった。
その後、経済状態に余裕があったので徐々に子供の数を増やしていき、今では6歳〜14歳、25人の子供たちが元気に生活をする場となっている。
子供たちはNETHさんの方針で学校に通う傍ら、英語や日本語、パソコンの勉強、そしてカンボジアの伝統舞踊であるアプサラダンスも練習している。週に2回月曜と土曜の夜にNETHさんの経営するレストランで踊りを披露し、寄付を募るなどの活動もしている。
またNETHさんは、今でもレストランの売り上げが多いときにはその売り上げを貯金し、そのお金で貧しい田舎の地域の子供たちに文房具などを届ける活動をしている。
れからもカンボジアの子供たちのために、このような活動を続けていきたいというNETHさん。今日も素敵な笑顔で出迎えてくれる。
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